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岩田聡 その半生
本日2011年12月6日は、任天堂社長である岩田聡氏の52回目の誕生日です。
任天堂は、1889年に山内房治郎氏が創業して以来、100年以上ずっと山内家の同族経営体制が続いていました。
そんな任天堂に、外様の岩田氏が社長として迎え入れられたのにはどのような経緯があったのか、
彼の半生を追ってみたいと思います。

記事のタイトルを"岩田を祝った"にしようか迷いましたがやめておきました。



今は昔、高校生だった岩田少年は、ある日コンピュータに出会います。
コンピュータといっても、当時はまだパソコンもない時代であり、
ここではマイコン(マイクロコンピュータ)というものを指します。
マイコンを見た岩田少年は「これからはコンピュータが世の中を変えていく」と直感します。

そして、米ヒューレット・パッカード社のプログラミングができる電卓"ポケコン"を岩田少年は入手します。
(アポロ計画で宇宙に持ち込まれた高機能電卓)
岩田少年は電卓でのゲーム作りにのめりこみ、友達にそのゲームを見せて一緒に楽しんでいました。
その友達とのやりとりで、岩田少年は"人に満足してもらえることの喜び"を知り、
ますますゲーム作りに熱中するようになったのです。



大学生になった岩田青年は、池袋で同好の士に出会います。
その頃やっとパソコンが世に出回り始めていて、
池袋の西武百貨店のパソコンコーナーがパソコン好きが集う場所になっていたのです。
そこで知り合った仲間たちが、ゲーム開発会社"HAL研究所"を設立したのです。
ちなみに、HALとはアルファベットで I・B・M の一つ前の文字であり、
当時の世界最大のコンピュータ会社IBMの一歩先を行くという壮大なネーミングです。
岩田青年も、大学時代からHAL研究所でアルバイトするようになり、
大学卒業後はそのままHAL研究所に入社することになるのです。



岩田氏がHAL研究所に入社した翌年の1983年、ある物を目にした彼の全身に衝撃が走りました。
それこそが、任天堂のゲーム機"ファミリーコンピュータ"です。
当時のファミコンの性能は正に圧倒的で、しかもそれがわずか14800円と、
パソコンとは比べものにならないほど安価で手に入るのである。
「ファミコンはきっと世の中を変える、自分もファミコンでゲームを作ってみたい!」と、
岩田氏の夢は膨らんだのです。



ファミコンがゲーム市場で圧倒的な普及をしたことはみなさんご存知だと思いますが、
実は発売当初から順風満帆だったわけではありません。
ファミコンのCPUに用いられた"6502"という規格は非常にマイナーでした。
このようなマイナーなCPUを選択した背景には、
ファミコンの設計をコピーしようとする他社への牽制の意味があり、その点では効果的だったのですが、
そのマイナーさゆえ任天堂社内でもこのCPUに精通した者は少なく、ソフト開発は難航していました。

そんなある日、岩田氏はゲームソフトの受託開発のために任天堂本社を訪ねたのです。
岩田氏は、ファミコン発売から数ヶ月の時点でCPUが6502であることを見抜いており、
その特性や裏技を次々に公開して任天堂社員たちを驚かせました。
岩田氏が初めて買ったパソコン(コモドール社のPET)に使われていたCPUが偶然にも6502だったため、
それでゲームを作りまくっていた岩田氏は任天堂の誰よりも6502を熟知していたのです。

首尾よく仕事を請け負った岩田氏は、次々にソフト開発をこなして行きました。
岩田氏はプログラマーとしても超一流で、
任天堂社内ではどうやってプログラムしたらいいかわからずに頓挫していたソフトも、
あっという間に完成させてしまった程です。
"ゴルフ"のボタンをタイミング良く3回押す"チャー・シュー・メン"のシステムや、
"バルーンファイト"の慣性プログラムなどは、岩田氏が手がけたものとして有名です。
(この慣性プログラムは、後に"スーパーマリオブラザーズ"の水中ステージに活かされました)
岩田氏の貢献によって、任天堂およびHAL研究所は勢力を拡大していったのでした。



ファミコンのヒットと共に急成長を見せたHAL研究所でしたが、1992年には倒産の危機に立たされていました。
開発拠点の新設のための費用が嵩んだことや、(バブル崩壊が追い討ちをかけました)
ゲームソフトの販売不振などが重なり、資金繰りが急激に悪化していたのです。
業績回復の目処は立たず、多額の負債を抱えたHAL研究所は和議(現在の民事再生法)を申請します。
これは事実上の倒産でした。

そこへ、当時の任天堂社長だった山内溥氏が資金援助を表明してくれました。
条件はたった一つ"岩田聡をHAL研究所の社長にすること"。
まだ32歳という若さだった岩田氏は、その責任の重大さに戸惑います。
今までゲーム制作しかしてこなかった自分は経営に関してはド素人。
しかも負債額は15億円にも上る。
もし返済できなかった場合の負債は全て自分が抱え込むことになってしまう。
岩田氏の葛藤は想像に難くありません。
しかし、岩田氏は一念発起して経営の建て直しに尽力したのでした。



山内氏の目論見通り、岩田氏は社長としても高い経営手腕を発揮。
"星のカービィ"や"MOTHER2 ギーグの逆襲"、"大乱闘スマッシュブラザーズ"などを大ヒットに導きます。
(岩田氏は開発が難航して発売中止寸前だったMOTHER2の開発現場に社長兼プログラマー兼プロデューサーとして参加。
「これを今のままで直していくなら2年かかります。でも、一から作っていいなら1年以内にやります」と発言し、
実際に1年で完成させるという離れ業をやってのけました)
HAL研究所は15億円の負債をわずか6年で完済し、見事に再建を果たしました。

岩田氏の経営者としての能力が優れているのはもちろんですが、
その才能を見抜いていた山内氏の眼力には感服します。
山内氏は、岩田氏の能力を高く評価し、任天堂の取締役経営企画室長として招きました。



そして2002年のある日、山内氏は岩田氏を呼び出し社長の座を譲り渡すことを告げます。

前述の通り、任天堂はずっと山内家の同族経営体制だったのです。
山内溥氏もその3代目であり、後を継ぐのは娘婿の"荒川實"氏か、息子の"山内克仁"氏だと思われていました。
しかも当時の任天堂は、圧倒的勝者だったファミコン時代の面影はなく、
SCEのプレイステーション2相手に為す術がない状況に追い込まれていたのです。
そんな状況で全く血縁関係のない入社2年目の人物を社長に指名するというのは正に異例の事態です。
このような人事は、岩田氏に全幅の信頼を寄せていなければできなかったでしょう。
岩田氏は、かつてない苦境に陥っていた任天堂のゲーム事業の建て直しを任されたのでした。



当時のゲーム業界は、正にプレイステーション2フィーバーでした。
しかし、プレイステーション2は、ハード売上げこそプレイステーション1を上回っていましたが、
ソフト売上げについては下回っていました。
プレイステーション2には、当時はまだ高価格だったDVD再生機能が付いていたため、
DVDプレイヤーとしての需要が大きかったのです。
派手なハード売上げとは裏腹に、ゲーム人口は年々減少していました。
ゲームがどんどん高度で複雑なものになった結果、ついていけなくなったユーザーが大勢いたのです。
しかもゲーム機の性能の上昇に伴い、ソフト開発のコストは膨れ上がる一方です。
コストは上がるのに、売上げは減少しているという最悪の状況に岩田社長は危機感を覚えていました。
このまま過去の延長でゲーム事業を続けていれば、その先に待つのは死のみ…。

もう行くべき道は決まっていました。
任天堂はゲームキューブまでの高性能路線を捨て、
ゲームに関心が薄い女性や大人、更にはお年寄り層までも開拓し、ゲーム人口を拡大することを目標としたのです。

"重要なのは次世代の技術ではなく、次世代のゲーム体験である"

そして生まれたのが、2画面・タッチパネルを採用した携帯ゲーム機"ニンテンドーDS"なのです。
(ちなみに2画面の案を出したのは前社長の山内氏)

ニンテンドーDSについての記述はコチラ
ニンテンドーDSの軌跡 前編
ニンテンドーDSの軌跡 後編

岩田社長の目論見通り、ニンテンドーDSは今までゲームをプレイしてこなかった層を取り入れて
歴代ゲーム市場最大の売上げを記録するに至りました。



そして、その思いは据え置きゲーム機"Wii"にも受け継がれました。
ゲームコントローラーは複雑な操作に対応するためにどんどんボタンが増え、
そのことが、あまりゲームをしない人たちから敬遠される一因になっていたと任天堂は考えました。
Wiiは直感的な操作ができる"Wiiリモコン"を搭載し、ゲーム初心者でも楽しめる市場を形成しました。
Wiiは現在までに、日本で1200万台、世界全体で約9000万台を売上げており、
任天堂は、スーパーファミコン以来の据え置き機トップハードの座を掴んだのです。
この9000万台という数字は、任天堂据え置き機としてはファミコン(約6300万台)を越えた最大の売上げなのです。
(ファミコンの数字がそれ程大きくないのは、当時は欧州にゲーム文化がなく、世界のゲーム市場がずっと小さかったため)



岩田社長の素晴らしい経営手腕で、任天堂は復権を果たしました。
岩田社長は再建に取り組んだ際、社員全員との個別面談を徹底的に行ったようです。
面談を通じて、岩田社長は自分の経営者としての能力を見極めると共に、
自分の考えを直接語ることで、社員の意識を向上させることに努めたのです。
岩田社長はこの経験から、自分の考えや想いを第三者を介することなく相手に直接伝える重要さを認識しました。
それまでほとんど話せなかった英語を勉強したのもそのためです。
(発音がおもいっきり日本語的なのはご愛嬌だが)
"社長が訊く"や"ニンテンドーダイレクト"で、
ユーザーに直接メッセージを伝えるようになったのも正にその一環でしょう。

岩田社長の言葉は、非常に丁寧で分かりやすく、聞き取りやすいことが特徴です。
直接言葉を伝えるために、相当なスピーチの訓練を積んだのだと思います。
スピーチの上手い人物としては、アップル社の故スティーブ・ジョブズ氏が有名ですが、
筆者は岩田氏のスピーチはジョブズ氏に引けを取らないと確信しています。

岩田社長は、2005年のゲームデベロッパーズカンファレンス(GDC)にて基調講演をおこないました。
GDCとは、米サンフランシスコで開催される世界中のゲーム開発者の集まる会議の場です。
その基調講演の冒頭、岩田社長は自分の名刺を掲げ、こう言いました。
「私の名刺には"社長"と書かれていますが…」
次に自分の頭を指差しながら、
「頭の中は"ゲーム開発者"です。しかし…」
胸に手を当てながら、
「心は"ゲーマー"です」と。
(実際は英語でのスピーチです)
岩田聡という人物像を見事に表したこのスピーチは、観客から喝采を浴びました。
筆者もこのスピーチに心を打たれました。
岩田社長が"ゲーマー"でいてくれる限り、これからも任天堂はゲーム業界をリードして行くことでしょう。
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[2015/07/13 09:49] | # [ 編集 ]


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